4、過熱化する幼児教育と主体性(やる気)のない子供たち
昨今巷には、こども英会話・右脳開発教室・さんすう教室・お受験塾・体操教室・スイミングスクール・サッカー教室・ピアノやバイオリンなどの音楽教室等々様々な乳幼児向けのお教室と呼ばれるものが、子どもの知能的・身体的・感性的な能力開発を売りにして提供されています。
また幼稚園や保育園・民間学童なども英会話や各種能力開発的なサービスを付加価値として売りにしているところも増えてきています。
もちろん、それぞれの教室やメソッドと言われるものには、それなりの科学的な根拠を持って子どもの能力開発謳っていて、「子どもの将来」にそれなりに役に立ちそうです。
また、この状況は、第一章で紹介したLaQの代理店からのレポートでも、韓国や香港も同じように幼児教室や塾が子どもの生活環境の中で大きなポジションを占めていることがよくわかりますし、中国・香港・台湾・韓国・日本といった東アジアの地域で顕著な傾向のようです。これはこの地域の民族的な勤勉・努力家・野心的・家父長的家族主義といった指向があらわれているように思います。
① 大人の時間と子どもの時間
私自身2児の父として子育てをしてきた中で、一番気をつけていたことは、「大人の時間と子どもの時間は違う」ということです。大人にとっての時間の概念と子どもにとっての時間の概念は全く違っています。そもそも子どもは大人のように時間を意識して生活していません。
大人は「社会的な時間」つまり、子どもを育てている親にとっては、何時から保育園に行って何時から習い事があって、何時から子どもの食事を用意して、何時にお風呂に入れて、何時に寝かせるか?そして、その合間を縫って仕事をして、掃除・洗濯・買い物の時間を確保するという具合です。
一方子どもにとっては、「社会的な時間」というよりも「生体的な時間」に支配されています。どういうことかというと朝明るくなったから目が覚める。朝ごはんを食べたのでお腹がいっぱい。トイレに行ったので体がスッキリした。保育園に入ったので外遊びの時間かな?お腹が減ったのでお昼ご飯の時間かな?お昼を食べたら眠くなったのでお昼寝の時間かな?という具合です。
そうすると、子どもが散歩の途中で蟻の行列に興味を持ってそれを眺め始めると、「社会的な時間」としては習い事に行く時間であっても、子どもとしては、興味が尽きるまで眺めていたいと思うでしょう。私の場合は、そういう時には、できる限り子どもの時間を優先できるようにと思っていました。ところが一般的には、親としては、子どもが楽しんでやっている習い事が始まるとなるとそういう時には、社会的時間を優先して子どもの時間を打ち切りにしてしまうことを繰り返している可能性があるのです。特に習い事が多い子どもだとかなりの時間が「社会的な時間」に支配されてしまうようになって、子ども自身が興味を持って自分の時間を確保するということが全くできなくなってしまいます。そしてそういうことが常に繰り返されると、子どもは、自分が興味を持って何かに取り組もうとしても、「どうせ親から中断されるのだし、親に引っ張っていかれる習い事を楽しそうにやっている方が親も喜んでくれるし、それでいいや。」という具合になって、自分のやりたいこと、面白そうなことに主体的に取り組んでみようというところからどんどん遠ざかっていってしまうことになってしまうのです。
つまり子どもの時間というものを尊重し、意識していないと親子で過ごす大切な時間が、むしろ親が子どもの時間を中断したり、子どもの興味の妨げをしてしまったりして、子どもの自発的な育ちや学びにとって逆効果になってしまう可能性があるのです。
私の個人的意見としては、乳幼児期の子どもの生活にとっては、子どもが安全に過ごせる場所と適度な大人の目があり、その場所に自然環境が豊富にあれば、子どもは自分の興味を自然の中で存分に充足させながら、自分自身のペースで遊んで、学んで、育っていけるように思いますが、これだけ都市化された現代の生活環境では、そのような理想的な子育て環境を確保することは非常に難しいと思います。そうするとやはりどこかで子どもの遊びや学び・育ちに必要な環境についてお金を払って設定してあげるということは、親として必要な部分もあるのではないかと思います。
そうは言っても、極端な家庭では、色々な塾や教室を掛け持ちして幼稚園とスポーツ教室・音楽教室・英会話教室等々で子どもが寝ている時間以外は全てタイムスケジュールが決まっていて、各教室を梯子している。さらに私立小学校を目指してお受験教室なんかに通っていると宿題なんかもあって、家でも子どもをスパルタ的に机に縛り付けて勉強させないといけないなんてこともあるかもしれません。このような生活になってしまうと「生体的な時間」に支配されている子どもにとっては、主体的に自分の好きなことを選びとるという余地が全く無くなってしまいます。
つまり、「やりたいことがあったら主体的に動ける」子どもを育てるために、親が決めた色々な習い事を親が決めたタイムスケジュールに沿って引っ張り回していては、子どもは親の操り人形のようであって、主体性は全く育っていないのではないかと心配になってしまいます。
毎日毎日が、日替わりで色々な習い事のスケジュールが詰まっている子どもにとっては、大人基準の「社会的な時間」軸の中で、目眩く色々な習い事とそれに関わる色々な先生と呼ばれる大人が、目の前を通り過ぎて行っているという感じではないかと思われるのです。そういった場合、やはりそれぞれの習い事で、その場に馴染んで先生としっかりとした信頼関係を構築して、自分が自分として特別な存在であることを認識するということは難しいのではないかと思われるのです。
私が思うに、子どもの「生体的な時間」というものは、大人が生活している「社会的な時間」よりも相当にゆっくりしていて、子どもの体と感情が、生体的にしっくり馴染んでいくためには大人が考える以上に長い時間が必要なのではないかということです。
これは私自身の経験ですが、私の息子はサッカークラブや新しい習い事に入っていくときに、そこのメンバーとして馴染むのに他の子と比べても大変時間がかかりました。最初は、周り全員が敵であるかのように反抗的に尖った態度で参加するのですが、そのうちそれぞれの性格や個性が見えてきて、周りも息子自身が他意のない良い奴だと認められてくると自然とそれなりに息子もその集団を受け入れ、その集団にも受け入れられていきました。こういうことから、色々な習い事を掛け持ちすることは、大人はそれなりに社会的なルールを認識しているので、新しい集団に参加するときにもそれなりに心構えを持って参加することができますが、子どもにとっては、親に連れられて新しい集団に入っていく時には、それなりに大きなストレスがかかっていて、馴染んでいくために相当な時間が必要なのではないかなと思います。
② 大人の価値基準と子どもの価値基準
親にとって乳幼児期から塾やお教室に通わせる理由は何でしょうか?
「将来役に立ちそうだから」「周りのみんながやっているから」「自分(親)が小さい時やりたかったけど、できなかったから是非自分の子どもにはやらせてあげたい」「絶対に入れたい小学校があるから」「良い学びの環境を整えてあげたい」「子どもが楽しそうにしているから」「(親の)お金と時間に余裕があるから」「自分がそういう育ち方をしてきたから」等々子どもを塾やお教室に通わせる理由は、色々あるかと思います。
では、「それは何のため?」と聞かれたら共通して出てくる答えは「子どものため」という目的ではないでしょうか?ただ、この「子どものため」というのは、どの時点で役立つ「ため」なのでしょうか?
次に、子どもから見て塾やお教室に通う理由は何でしょうか?
「楽しいから」「〇〇ちゃんと一緒に遊べるから」「親に連れて行かれるから」「先生に特別扱いしてもらえて嬉しいから」等々・・・これ以降は、皆さんがどれだけ子ども時代の自分の感覚を思い出せるかが試されますね。そして、これが子どもの本音の部分に繋がっていくのではないかと思います。
では、同じように習い事は、子どもにとって「何のため?」に行っているのでしょうか?
「現在の(または将来の)自分のため」と回答できる乳幼児はいないと思います。では何のためでしょうか?多分、うまく習い事がその子の興味や関心にはまっていれば、「楽しいから」ということになるでしょう。ただ、興味関心に全くはまっていない場合は、いかがでしょうか、想像するのも恐ろしいですが、この習い事の時間は親子お互いにとって時間とお金を無駄にしているということになるのではないかと思います。
ここで、子どもの「育ち」と「学び」と「遊び」ということについて、少し考えてみたいと思います。私は、教育玩具の企画と開発を行うにあたって常に教育的であることを意識してきました。ただ、教育的すぎて子どもが遊ばないような企画は、玩具としては不合格です。当然、玩具というかぎり子どもがよく遊ぶものでなければなりません。また、LaQは構成玩具なので、作り方の説明書も作るわけですが、この説明書の内容が遊ぶ子どもの年齢にあっていないと、やはり子どもは戸惑ってしまいます。ということで、教育玩具の企画的には、「育ち(年齢)」と「学び」と「遊び」のバランスは、まさにこの子どもの時間感覚と価値観を軸に考慮されるものであって、非常に気を使っている部分でした。
私がLaQの企画で常に意識していたことは、子どもの学びというものは、夢中で遊ぶ中でしか学ぶことはできないということです。ということは、企画の中でいかに子どもを夢中にするかということが非常に重要になってきます。夢中になるためには、時々嬉しいサプライズも必要ですが、どちらかというと予定調和な安心できる安定的な要素が特に重要である様に思います。特に小さい子ども向けには、予定調和的な安定感・安心感というものが特に大切であると思います。
乳幼児向けの絵本で、「いないいないばぁ」松谷みよこ著(童心社)という定番絵本がありますが、この絵本は、色々な動物が手で顔を隠した絵(いないいない)から次のページで、顔を見せて(ばあ)と顔を見せます。単にこれの繰り返しですが、絵本の読み聞かせでは、定番絵本で子ども達も大好きな絵本です。これも予定調和的な繰り返しの絵本です。
また、皆さんもよくご存知だと思いますが「はらぺこあおむし」エリック・カール著(偕成社)という絵本も非常に有名な優れた絵本です。この絵本は、腹ペコのあおむしが色々な色の果物や食べ物を繰り返し繰り返し食べて大きくなっていき、最後は蛹からチョウチョに変身するという絵本です。この絵本は、絵本を読み聞かせられた子どもや読んだ子どもが、予定調和的な繰り返しのストーリーの中でチョウチョの生態・色の概念・数の概念・食べ物の種類などを自然に学べるようになっていて、最後は蛹がチョウチョに変身するという嬉しいサプライズで終わるということで、美術的な価値はもちろん感性的な発育と科学的な興味を自然に引き出していくような構成になっています。このため世界的にも非常に優れた絵本であるという評価を受けています。当然子ども達も大好きな絵本です。
大人の感覚からするとこのような絵本は、一回読んだら、分かったもう充分という感じになるかと思いますが、子ども達は、毎日毎日同じ本を読んでもらってじっくりとその世界観やそのストーリーに込められた作者のメッセージを消化して自分のものにしていくのだと思います。
そして、子どもに関わる時には、親や保育者にとってはこのような子どもの基準に合わせた感覚調整が重要になるかと思っています。ただ、お母さん達の様子をみていると私の妻もそうですが、自然と子どものニーズを汲み取って、このような感覚調整をしている部分が多分にあるようにも思われます。これに対して、お父さんはどこか意識的に父親として感覚調整を行なって行かなければならないところもあるかと思います。
女性は、お腹の中で我が子を育んでいく10ヶ月間にかなり母になっていくのではないかと思いますが、やはり男が父になるためには、どこか自分が生きている仕事上の社会的な有るべき社会人と家庭人としての父であることとの葛藤や子どもがいる状況に対する感情的な調和作業を意識的に行う必要があるのではないかと思います。少し前に「そして父になる」是枝裕和監督・福山雅治主演という映画がありましたが、そういう男の内面的な葛藤をうまく描いていたのではないかと思います。
さて、少し話がズレてしまったように思いますが、このように大人の価値観と子どもの価値観は全く違っています。考えてもみれば、生後数ヶ月の子どもは自分自身の生命の誕生から半分の人生はお母さんのお腹の中で過ごしていたわけですから、空気があって、太陽があって、昼と夜があって、周りに色々な人がいると言う世界に懸命に順応しようと頑張っている真っ最中なのです。もちろん2歳3歳と言う子ども達も、20歳や30歳の大人の感覚からすると、まだまだこの生後数ヶ月の乳児の感覚に近いところにいる訳ですから、やはり親や保育者はこのことを意識して行かないといけないと思います。
念のために言っておきますが、レジャー(余暇)の感覚も大人と子どもでは全く違います。大人にとっては、「遊び」=「余暇(レジャー)」となりますが、子どもにとっては、「遊び」=「人生そのもの」ということになります。たまに大人の中にも「遊び」=「仕事」・「遊び」=「人生そのもの」という方もいらっしゃいますが、そういう方は今の社会では恵まれている人ということになるのではないかと思いますが、一般的な大人の感覚として日常の憂さを晴らしに行くテーマパークは、2歳3歳の子どもにとって人混みをうろうろして人気アトラクションの行列に並んで待つことは、普通に子どもの感覚を想像すれば全く面白くないことだと言うことは、これまでのお話からお分かりいただけるでしょうか?
さて、以上見てきたように子どもにお金と時間をしっかりかけてお教室通いをさせている家庭がある一方、現代の日本社会では、富裕層と貧困層が二極化してきている状況においては、日々の食糧にさえ事欠いていて、日々の生活費を稼ぐために両親やひとり親が働きづめで、家庭でのほとんどの時間を一人で過ごしているという子もいます。このような子どもたちには、やはり保育園や学校と学童保育所で過ごす時間が非常に重要な居場所となってきます。この点については、保育園や学童保育のあり方についても含めて、引き算の育児の章で検討してみたいと思います。
