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記事・コラムColumn

幼児教育・子育てのコラム

引き算の育児とは?(今の時代、どうやって育児する?)

5、引き算の育児とは?

①   足し算の育児と引き算の育児

 これまでの沢山の幼児教育の専門家が言っているように、子どもはその年齢に関わらず、すでに満たされた存在であって、不完全な大人ではないということです。子どもには独特の感性とモノの見方があって、時として大人が当然のこととして意識していないような社会常識に対して、驚くような疑問を呈したり解釈を与えることがあります。このような瑞々しい感性や純朴な発想をもっと大切にしなければならないのではないかと私は考えています。

 そして、この様な子どもが持っている美点を壊さないよいうに、大切にしながら、しかし現実の社会でよりよく生きていけるように、成長に応じて自分自身が気づきを得ていくような教育こそが「引き算の育児」と私が定義するものです。

 ところで皆さんは、「幼児教育」と言うとどのようのものをイメージしますか?世の中には、子ども英会話、右脳開発教室、体操教室、サッカー教室、ピアノ教室等々様々な幼児教室が沢山あります。そしてこれらは全て「何もできない子どもに何かできるようにする」と言うことを前提に運営されています。つまり足し算です。そして教室に通わせる親は、「何もできなかった子どもが、何かできるようになる」ことに期待して、教室に通わせるのではないでしょうか。


 そうすると、これらの足し算の幼児教室は、もともと「出来ない子」を「できる様にする」と言うことが、親も先生も暗黙の前提となっています。そしてこの前提は、子どもにとっては、「自分は教えてもらわないと何もできない子」というメッセージになってしまうのではないでしょうか。子どもの発達には凸凹がありますから、親も知らない間に教室に通わなくても出来てしまっていたと言う子もいるし、本人の発達段階としてその時点では全く出来ないと言う子もいます。そして、この足し算の幼児教室における「自分は教えてもらわないと何もできない子」という暗黙のメッセージは、できない子にとっては、「自分は教えてもらってもできない子だ」という観念として、深層心理に刻み込まれていきます。このような思い込みが、心の中にできてしまうと普通であれば、年齢とともに普通にできることですら、その可能性を邪魔してしまうことになってしまうでしょう。


 このように足し算の育児は、できる子は全く問題ありませんが、出来ない子にとっては、スキルの習得以前に、出来ないことを先生から哀れみと同情の目で見られ、他の出来る子と比べた自分の親からは、苛立ちと怒りをぶつけられ、その敗北感と屈辱感という感覚は、感情の奥底で拭いがたい心の傷として残ってしまい、後々までその影響を引きずってしまうことになりかねません。


 これも私の息子についての話ですが、私の息子は早生まれで運動能力についての発達は比較的早かったものの、落ち着きという点では他の子に比べて非常に遅れていました。そうすると体操教室では、生き生きと自分らしく活動しているものの、勉強系のお教室では、そもそも落ち着いて座っていることが困難な状態でした。この状態の息子を私と妻は、無理矢理座らせる、他の子に迷惑がかかるということで教室の外に引っ張り出し叱りつける、脅しつける等々、その度息子は全力で抵抗して怒っていました。そしてその時に深く感情の奥底に刻まれた感覚は、中学3年生になった今でも、何かのきっかけでスイッチが入ってしまうと怒りの感情が湧きだしてきてしまうようです。そしてこんなふうに刻まれた劣等感や怒りの感情は、成長してから快復しようとしても、大変に難しいことを実感させられています。


 そして、現在はというと、その頃の落ち着きのなさは全くなくなり普通に落ち着いて勉強もできていますので、一定年齢がきたら自然とできる様になることを早い段階で無理矢理に子どもの押し付けることは「百害あって一利なし」というように思います。


 この様に、出来ないことを出来る様にするという足し算の幼児教育は、親や先生がたは、この子のために出来ないことをできる様にしてあげようと一生懸命になってやればやるほど、出来ない子にとっては多分に子どもの自尊感情を傷つけ、自己肯定感を否定してしまう結果となってしまっていることになっていることもあるように思われます。


 そもそも、「教育」と言う言葉自体が、教え育むことですから、何かスキルや知識を教えないとその言葉自体が成り立ちません。ただ、今の幼児教室は、この「教える」ことの方に比重が置かれすぎていて、教える側も親の側も教えられ、出来るようになることに一生懸命になりすぎているように思われます。また教室は「お金をもらって親御様からお子様を預かっている」限りは、宣伝で謳っている様な成果を子どもに出して行くことが責任であり、義務ですから、教えることに比重がかかってくることは自然の流れです。


 もちろん子どもにとってもできなかったことができるようになることは、達成感や満足感を得ることになり、これはその後の人生でとても役立つことになると思います。ただ、子どもの発達は百人百様ですから、年齢ごとの平均的な達成度と個々人の発達度合いは、非常に差があることが普通です。特に乳幼児期は、早生まれの子どもと4月生まれの子どもだとその成熟度合いは、お兄ちゃんと弟?と言うぐらい違うものです。そこで、やはりここでも子どもの時間感覚ということを考えなければなりません。


 子どもの成長の時間を単純化した数字で見ていくと、2歳児向け幼児教室に通った場合に先の章でも述べてきた通り、子どもの時間にとって学年の平均値を4月頭から翌年3月末の中間点ととると9月生まれの子どもが能力的な平均値として、4月生まれの子どもは24ヶ月分の6ヶ月成熟期間が長くなります。逆に早生まれの3月生まれの子どもは、24ヶ月分の6ヶ月成熟期間が短くなります。これをパーセンテージにするとそれぞれ25%成熟の早い子と25%成熟の遅い子が比べられていると言うことになりますから、4月生まれの子どものと翌年の3月生まれの子どもには、50%の成熟度の違いがあると言うことになりますが、学齢別に分類すれば同じ学齢の教室ということになってしまいます。この状態について分かり易いように少し年齢を大きくして考えてみましょう、3歳の子どもと5歳の子どもを同じ土俵で相撲を取らせているようなことになるのではないでしょうか。また、3歳の子どもと5歳の子どもに同じさんすうの課題を与えて3歳の子どもに「出来ない子」と叱りつけることは妥当でしょうか。そしてその様な状況のにおいて、特に同じ学齢ということになると出来ない子の親も焦りが出てきまてしまって、親が子どもに無理をさせてしまったり、余計なプレッシャーをかけてしまうことになってしまうことは想像に難くありません。しかし子どもの相対的な時間を考慮すると、この状況は早生まれの子どもにとっては酷な状況であるということが分かります。


 次に、子どもが、乳幼児期に何かしらのスキルを身につけることの意味です。2歳児が数を数えられたらこれは天才かな?と言うことになりますが、6歳で数を数えることができるのは普通のことです。4歳児がフラッシュカードを見ながらものの名前を沢山言えることは超能力のように思われますが、その能力を持って将来ノーベル賞を取れるかどうかは疑問です。最近、医学・教育学・発達心理学などの様々な学域を統合した形で人の発達について研究する「赤ちゃん学」と言う研究がありますが、この研究によると乳幼児期の子どもの能力は、非常に柔軟で対応力が高く、個人的なスキルや能力について、うまくその子のツボにハマると超人的、天才的な結果を結構な確立で出すことができると言うこともわかってきていますので、うまくこういう能力を効率的に発揮させることができる塾があれば、親が喜ぶパフォーマンスを子どもにさせるという点では、高い宣伝効果があるのではないかと思います。


 また、小学校低学年の頃には、天才と呼ばれていた子どもが、社会人になったら普通の人になっていたという話は、普通にあることですし、一定の学齢に達したら自然とできる様になることをあえて早期に教室に通って教えてもらうことに意味があるのかということです。


 さらに、ピアノやバイオリンなどは幼少期からの始めることで、一流の演奏家を育てるというお話もありますが、我が子を本気で世界的なプロピアニストにしたいと思っている親は、子どもにピアノを習わせる親の中でどれほどいるでしょうか?むしろ、これらの習い事は、生活に潤いを与えて趣味として長く続けてもらいたいと習わせる人の方が多いのではないかと思います。そうすると嫌がる我が子を無理矢理ピアノに縛りつけることは、子ども本人の感覚からすると苦痛以外の何者でもないように思われます。


 以上をまとめると、乳幼児期の子どもに効率的に沢山の知識やスキルを詰め込むことは引き算して、子どもに「何かを出来るようにする」ことよりも子どもが「それを楽しんでいるか」を重視して、「何かを出来るようになる」前に人間として育つための心と体の基礎を充実させることが非常に大切であり、そのための人間関係と生活習慣をしっかりと子どもの生活の中に確立させることが、大人の責任ではないかと考えています。


 ただ、この様なお話をすると、人によっては「子どもはほっといても勝手に遊んでいるし、一人でも育つのだ、だから放任主義で良いのだ」という方もいらっしゃるのですが、以下では引き算の育児と放任主義の違いについて述べていきたいと思います。


②   引き算の育児って放任主義のことなの?


 「今の社会では習い事や幼児室が多すぎる」「また親の過干渉が子どもをダメにしている」と言うようなお話が色々なところで出てきています。こう言う議論の中で「引き算の幼児教育」と言う言葉を使うと、それは「放任主義ではないか」とか「自由保育ではないか」と言うことを言われる方がいますが、私がいう「引き算の育児」は、放任主義や自由保育と言う言葉の定義にもよりますが、一般的にいうそれらのものとは全く違います。


 前章でも述べてきましたが、乳幼児期の子どもと言うのは、この世界に懸命に適用しようと頑張っている存在です。もしあなたが、言葉も通じない、習慣もわからない、世界を構成する自然のリズムもわからない地球とは別の惑星に突然放り込まれて、どうぞ自由にしてくださいと放置されたらどうなるでしょうか?多分あなたは放置した異星人に「なんて不親切な!!」と憤るのではないでしょうか?


 私がいう「引き算の育児」と言うのは、私たちの生活に突然入ってきた未知の異星人に私たちがこの地球で生きて行くことと日本の社会に適用できるように適切な介助を与えるガイド役になってあげることを言っています。そしてその適切なガイド役になるための助けは、私たちもまたかつては、この異星人であったと言うことです。


 もう一度言いますが、無責任な放任主義は、我々が突然何の装備もなく砂漠に放置されるようなものですから、養育されている子どもに生存の脅威を与えているのです。


では③からは、具体的に「引き算の幼児教育」について述べてみたいと思います。


③   大人と子どもの関わりを引き算する


 これまで説明してきた通り、子どもは、お母さんのお腹から出てきて初めての世界に一生懸命適応しようと頑張っています。そして私たち親や保育者は、その突然現れた異星人がこの地球環境と日本社会に適応できるように適切なガイド役にならなければなりません。


 では、そのためには、具体的に何が大切なのでしょうか?これを具体的かつ実践的に実現している保育園があります。以下この保育園の実例をご紹介します。


千葉稲毛海岸 まどか保育園


 ここで、千葉県にある「まどか保育園」という保育園を運営している社会福祉法人の樋口理事長の活動についてご紹介したいと思います。


 樋口先生は、乳幼児の子どもの育つ生活環境や子どものお世話の仕方について、ご自身の保育園はもちろん全国各地の保育園を指導して保育環境の整備と保育士の育成に取り組んでおられます。そして、樋口先生が常々言っているのは、家庭の事情は様々あるけれど、少なくとも子どもが日中生活している保育園にいる間は、規則正しい生活リズムと子どもの安心できる保育者の環境を整えることで、子ども達が主体的に生活できる保育園を実現していきたいということです。まどか保育園の卒園生は小学校でも先生の話をよく聞くことができ、人への気遣いもでき、場の中心で集団をまとめる力がある子が多いと評判の保育園で毎年全国から園長先生や保育士さん、また保育を勉強している学生さんの見学者希望者が沢山訪れる保育園です。


 では、この樋口先生は、子どもの保育の実戦に当たって何を一番重視しているのでしょうか?


 私は、LaQの営業を始めた頃に樋口先生をご紹介いただき商品の営業にお伺いしました。樋口先生は、LaQを少し遊んでみて「大変面白い!!」「私が関わって保育園にすぐ入れましょう!」快いお返事をしていただきました。私は、それまで保育園や幼稚園へ教材を納入している大手の販売会社へ営業に行っては、「パーツが小さいので、子どもが口へ入れたら危険だ」とか「パーツが小さすぎて子どもが家に持って返ったりして園での管理が大変だ」等々の理由で断られ続けていたので、思わず「大丈夫ですか?」と聞き返してしまいました。


 そうすると樋口先生は、「環境が整っていたら子どもは大丈夫だよ、安全性や管理のしやすさというのは、子どもを管理する園側の事情であって、むしろ子どもがよく遊ぶということの方が玩具は大切だから」と言って、樋口先生が関わって環境を整えた保育園のビフォーアフターのビデオ映像を見せていただきました。


 そこには、2歳や3歳の子どもたちが、決して抑圧的に大人が指示を出しているわけでもない中で、非常に整然と知的に活動をしている様子が映されていました。私はこの映像を見て大きなカルチャーショックを受けました。子どもの価値基準と時間の感覚を意識した「規則正しい生活リズム」と「子どもが生活するための場所と時間が安定的に保証されている環境」で、担当の保育士さんが個々の園児に人間としての尊厳を認めてしっかり関わることで子どもの動きが驚くほど知的なものになって行くことを教えられました。私は、この様な保育所が全国で増えていけば、日本は本当に変わって行くだろうという確信を持って、この活動を広めていくことを自分のライフワークにしようと心に決めた瞬間でした。


 それからもうすでに、25年もの時間が経ってきました、樋口先生の地道な実践活動はその間着実には広がっています。また私自身もこの間LaQの仕事をしている中で、事あるごとに樋口先生のお話を幼児教育の関係のお仕事をされている方々にしていますが、その間でも曲芸的に子たち達に20段の跳び箱をチャレンジさせる保育メソッドやマスコミ的に分かりやすい幼児教育がもてはやされることはあっても、地味な子どもの尊厳や自尊心を大切にする保育は、目に見えて分かりやすい効果が即席で子どもたちに現れるわけでなく、そうこうしている間にも、世の中はどんどん悪い方向に進んでいってしまっていることが本当に気がかりです。


 ではここからは、樋口先生の著書「子育てにおもちゃを」から少しそのエッセンスを抜き出して見たいと思います。


「子育てにおもちゃを」第一章子どもの成長と遊びより


『子どもが豊かに成長発達していくためには、幼児期の「遊び」がとても重要な役割を果たしています。最近改訂された「幼稚園教育要領」や「保育指針」の中でもの、「遊び」の重要性についてはより強調されていますし、「遊び」以外の方法で子どもを発達させることは不可能だと言っても言いすぎではありません。

大人は子どもに、いつも何かを教えたいと思っているのですが、子どもが「教えられている」と感じている時にはそれが伝わらず、子どもが「遊んでいる」と感じた時にのみ、その子のものになっていきます。子どもは遊びながら考えたり、空想、想像したり、手や体を使ったり、言葉を駆使したり、人間関係を作ったりしています。つまり、発達に必要な重要な体験は、全て遊びの世界で行われるのです。したがって、「良い子育て」とは、まず子どもの遊びを豊かなものにしてあげることから始めなければなりません。
ただし、子どもの教育と遊びの関係を考えるとき、大人が絶対に忘れてはいけない大切なことがあります。

それは「決して教育するために子どもを遊ばせるのではなく、子どもが純粋に遊んでいる時にのみ、そこに教育が存在する」ということです。乳幼児期の教育はまさに「遊ぶ」ことによって成立します。教えたいことが多ければ多いほど、子どもをより多く遊ばせましょう。大人と子どもの理想的教育関係とは「大人は教えている」けれども「子どもは遊んでいる」ということです。
そしてこのことを一番具体的に見せてくれたのがヨーロッパの幼児教育でした。』

樋口正春 著 「子育てにおもちゃを」

とあります。まさに私のいう「引き算の育児」の本質は、ここにあります。そして、最後に「このことを一番具体的に見せてくれたのがヨーロッパの幼児教育でした。」とありますが、第二章で記載した国連の幸福度ランキングで北欧地域が独占していて西欧諸国も上位に位置していることと幼児教育の考え方がしっかりしていて、子どもを取り巻く社会環境において、幼児教育が充実していることは、非常に密接に関係しているように思われます。


 樋口先生が、この本を執筆・出版されたのは、1991年5月1日です。それから、この本に書かれている理想の保育を実現するために、ドイツの保育環境を参考にしながら、伝統的な日本の子育てを加味して、日本人の子どもにあう育児環境というものを追求し全国各地の保育園で実践のお手伝いをされてきました。樋口先生が主催する「保育創造セミナー」という会では、保育園の園長先生や保育士さん向けに10日から14日間のドイツ研修旅行を開催しています。このツアーではドイツの保育現場と保育士養成の専門学校、またドイツの地域社会での普通の人々の生活意識や社会システムを体験して、ヨーロッパの子育ての考え方と子どもを取り巻く社会環境を実際に体験できる内容になっています。私自身2016年にその年中学学生になった娘と一緒に参加させていただきました。


 これまでも書いてきた通り、私自身教育玩具の企画において、ヨーロッパの幼児教育の元祖と言われるルソーの著書『エミール』から始まるフレーベル・モンテッソーリ・ペスタロッチ・シュタイナー教育などの教育思想から、フロイトから始まるユング・アドラーなどの心理学を起源とした発達心理学等ヨーロッパの幼児教育や発達心理学の思想の流れとその内容をそれなりには勉強してきましたが、実際にこれらの思想が、しっかりと社会システムとして人々の生活の中に定着して、普通の人が普通の感覚として、このような考え方をベースに生活している中に入っていくと、本で学んできたことがいかにちっぽけであったかということを実感させられました。また、一緒に行った私の娘は、最初は全くツアーに興味もなく、むしろ私が無理矢理引っ張っていったのですが、最終的にはそのツアーに参加して「将来絶対ドイツに留学したい」と結果的に大きな刺激を受けていました。


 また、このツアーに参加した若い保育士さんたちの中にも、日本の社会常識から離れてドイツの社会常識や人々の考え方に触れて、新しい世界に挑戦しようという人が何人もいたのを見て、やはり教育というのは、無理矢理押し付けるのではなく、周りの環境と人々の人的感化というものが、子どもに限らず、本当に大切だということを認識させられました。


 さて、改めて「引き算の育児」の定義に戻っていきます。これも「子育てに遊びを」からの引用ですが、第十二章保育園・幼稚園での遊びを考えるという章の保育者と子どもの関係という部分です。


『保育園、幼稚園での子どもの遊びについて考える時、「遊びを助ける」ということが、重要な意味を持っていると思います。保育研修で西ドイツのある幼稚園を訪問した時、日本からの参加者である一人の幼稚園の先生が、「どうしてここの先生は、子どもと遊ばないのですか」といった意味のことを質問しました。
 実際この時訪問したゲッティンゲンにあるシュタイナー幼稚園にしても、以前に訪問した西ドイツやスイス、ハンガリーなどのいくつかの保育園、幼稚園でも保育者が子どもの遊びの中心にいるのを見たことがありません。 この時、三十代の若い園長はこう答えました。
「私たちは外側はいつも受容的であるように、内側は能動的、積極的であるように心掛けていますし、また、常にそうあるように努力しています」
 つまり、外見は何もしないで、ただ子どもの遊びを見守っているだけのように見えますが、内面は心を能動的に働かせ、子どもの出すサインを見逃さず、いつでもその求められる助けに応えようという、積極的な気持ちを持ち続け、子どもと向かい合うということでしょう。
後日、先程のシュタイナー幼稚園で同じ質問をしたところこういう答えが返ってきました。
 「遊ぶ力の弱い子どもには、一緒に遊んであげることで遊びのモデルを示すこともあります。しかし、子どもが自分の力で遊び始めたら、気付かれないように子どもから離れるようにしています。大人がいつまでも子どもの遊びの中にいると、依存心を生み出し、子どもの自立を妨げることになるからです」』

樋口正春 著 「子育てにおもちゃを」


 つまり、放任主義ではなく外見的な大人の関わりを引き算しつつも、子どもの様子には常に関心と注意を払い、何か子どもの側から助けを求めている様子があれば、自然にその活動を補助することができるということが私のいう「引き算の育児」ということになります。


④   お母さんの育児ストレスを引き算する


 お母さんの育児ストレスを引き算するということは、子どもに関わる両親の心に余裕を持って、適切に子どもの内面に関わるために、現状1日に詰め込んでいるスケジュールを少し引き算しましょうということなのですが、現代の日本社会で子育てしているお母さん方の生活は朝から晩まで子どもの世話と家事、家庭によっては仕事までしている方にとっては、「一体どこをどう削ったらいいの?!」という言葉が返ってくるに違いありません。最近はイクメン夫だの男性の育児休暇取得など、男性の育児参加に関する議論や論調が多くなされていますが、やはりまだまだ日本の社会では育児に関して女性の負担比率が大半を占めているのが現状です。このような現状おいて、そもそも密室育児で孤独感とストレスで児童虐待寸前のところにいるお母さんに、「スケジュールを引き算して、心に余裕を持ちましょう!」なんて絶対に言えません。


 そうすると誰のスケジュールを引き算するかというと、「お父さん!今でしょ!」(ちょっと古いですが)ということになるのではないでしょうか?家庭において、父という存在は唯一無二です。一方会社や社会では、あなたの替えはいくらでもいます。そして子どもの将来を決める重要な時期に仕事だけに没頭していて良いわけはありません。また、平均寿命も伸びてきて人々が一生の中で働かなければならない就労期間も伸びてきているという長い社会生活の中で、子どもが乳幼児期を過ごすのは、仮に3年ごとに3人の子どもを作ったとするとたった9年ですし、この間全く仕事をしていないということではないのです。そして、幸いなことに最近の流れとして社会常識もワークライフバランスという概念が浸透してきています。特に昨年からはコロナショックで、リモートワークというものも浸透してきています。「社会人としての男と家庭人としての父という役割について」また「人が人として人間らしく生きる」ということについて、ゼロベースで考えてみてはいかがでしょうか。


 とはいえ、男性にとってもまだまだ日本の会社では、男性社員が長期に育児休暇をとることや育児期間中とはいえ残業を断って家に帰るというのは、なかなか勇気のいることです。そうすると行政的な問題になりますが、育児期間中のお母さんの助けとなるのは、保育園の充実ということになるのではないかと思います。最近は、「女性活躍社会実現!!」とか「少子化対策!!」とかいって、量的には保育園の数は増えてきているように思われます。ただ、都市部ではまだ待機児童が沢山いますし、子どもを預けるために子どもの養育環境に様々な制限がかけられていて認可保育園への入園のハードルは高いものとなっています。これに対して、ドイツでは、子育ては地域全体の仕事であるという考え方のもと、家庭環境にかかわらず希望する人は全員保育園を利用できるように、地域の首長は質の高い保育園を整備することが、行政サイドに義務付けられています。つまり、専業主婦であっても希望すれば、無条件で保育園を利用することができるということです。


 あるアンケートでは、専業主婦で育児をしているお母さんと仕事をしていて、保育園に子どもを預けているお母さんとでは、圧倒的に後者の方が育児ストレスが低いという結果が出ています。つまり、地域社会が崩壊して、核家族化し家の密閉度が高くなっている現代の日本社会で一日中子どもと向き合って生活するということは、いくら愛情深い実の親子であったとしても不健全な状態になってしまっているということではないでしょうか。


 こういうことからも、家庭状況にかかわらず、子どもは地域社会全体で育てていくものだという理念の元に、地域の全ての子ども達を保育できる環境を量と質の両面から整備していくことが求められているのではないかと思われます。そうすれば、毎年育児ストレスや育児ノイローゼから子どもを虐待し、ひどい場合には、何人もの子どもが亡くなっているということも防げるのではないかと思われます。


 また、現在の保育行政のように、ただ待機児童を解消するためにがむしゃらに受け入れ人数の増やすための施設を増設するという量的な対策だけでなく、しっかりとした保育環境と保育士の養成も同時に行っていければ、親も安心して保育園に我が子を預けることができ、また家庭の親子で過ごす時間もより充実し、また良い幼児教育の環境が保育園で整備されていければ、女性の社会進出も促進され、少子化問題も大きく改善して、日本の将来にとって大きくプラスになっていくことが期待できます。


⑤   親の期待を引き算する


 さて、引き算の育児ついて、最後の項目は「親の期待を引き算する」というものです。親の欲目という言葉がありますが、これは、親が我が子について「我が子は他の子に比較するとどうもかなり美形のようなので、将来は女優さんになれそうだね」とか「足し算が早い我が子は、将来は天才数学者になれそうだ」とか「こんな年齢でジャングルジムの上までスルスル登っていく我が子は将来はオリンピックの体操選手になれそうだな」とか「生後4ヶ月、ピアノのソの音だけに反応して泣く我が子は、多分一流のピアニストになりそうだな」等々、そして「客観的にみて絶対そうだよね!」と夫婦で頷きあうというは、完全な親の欲目というやつですね。そして、この欲目が、両親の側だけで、満足して子どもを男前だの美人だの天才だのとちやほやしているだけの間は害がないのですが、これが高じてくると、この欲目が、子どもに対する将来への大きな期待となり、教育目標となり、スパルタ教育となり、子どもを親の期待を実現させる道具としてしまい、結果的に子どもを苦しめていくことになってしまいかねません。そうなってくると親の欲が子どもへむき出しになってしまってきます。


 子どもを親の期待を実現させるための道具にしている方々の言い分は、「この子のために彼の持つ可能性を実現させてあげたい。」ということが多いように思いますが、これはやはり親のエゴというものではないでしょうか?あくまでも、子どもは、お母さんの体から離れた瞬間から親とは別人格を持った一個の人間です。


 これまでも言ってきた通り、この突如としてこの世に現れた愛おしくてかわいいこの異星人は、生まれて5年くらいは、この地球環境と日本という社会そして、この子のいる家庭に順応し適応しようと一生懸命です。その上親の欲まで背負わされたら、本当に大変です。親としては、自分たちの期待は少し引き算して、逆に彼らの側から今何を求めていて、どういうサポートが必要なのか?ということをまずは第一に考えて、もしその子が、自分自身で自分の可能性を発見し、そのことがその子にとってとても楽しいことであれば、また改めて全力でサポートしてあげれば良いのではないでしょうか。


 そういう意味で、親の欲目からくる期待というものは、引き算するのが良いかと思います。

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