ヨシリツ株式会社の本社は、私の実家です。
建物が建てられたのは1800年ごろ、典型的な書院造です。奈良県吉野郡。父はこの家で生まれ、この家でアイデア商品を売り、この家でLaQを発明しました。会社の登記簿に載っている本店の住所と、私が生まれ育った家の住所は、同じです。
同族企業の話をするとき、「会社と家は別の人格である」と言うのは簡単です。法律の上では、そのとおりです。けれども本店が実家であるような会社では、その区別は紙の上にしかありません。玄関を入れば、そこは家であり、同時に会社です。
第1回では、二つの承継を並べました。片方では制度が実際に動き、もう片方では書面の上だけで動いたことになった、という話でした。今回は、その手前に遡ります。
対立が始まったのは、私が入社した1995年ではないと思うからです。
父方の家——村長を務めて、没落した
父方の家について、わかっていることを書きます。
明治になって新政府に協力し、当時の家長であった吉條久米徳が、奈良県南部一帯の吉野村で村長を務めました。ところが当時はまだ徴税の制度が整っていませんでした。行政を回すために私財を投じ、家は没落していきました。
その後の家業は、明治の当時高級な飲み物であった牛乳を製造するため牧場の経営へと移りました。ヨシリツ創業の直前は、明治乳業の販売代理店です。そして1983年10月、父が個人事業としてアイデア商品の企画販売を始めました。これがヨシリツの出発点になります。
並べると家の履歴書のようですが、ここには一つの型があります。公のために私財を出し、家が傾いた。以後その家は、「かつてあったもの」を背負い続けることになります。没落した名家というのは、失った家ではなく、失ったことを覚えている家のことです。
父の幼少期が恵まれたものではなかったことは、聞いています。ただ、この連載で父の人格を論じるつもりはありません。私にはその資格がないと思いますし、したところで誰の役にも立ちません。書くのは、起きた出来事と、その出来事が私に何をしたかだけにします。
母方の家——「この子は大器晩成型やから大丈夫や」
私の幼少期は、その多くを母方の祖父母のもとで過ごしました。
祖父母は、私に何かが足りないという言い方をしたことがありません。無条件の愛情と全肯定「いつもニコニコして可愛らしい、男前や」「絵が上手や」。客観的に言えば、どれも事実ではありませんでした。小学校の中学年にもなれば、自分がどのあたりにいるかは周りの目でわかります。勉強もさして出来ず、頭の回転も速くなく、運動も不得意でした。
それでも祖父母は、母が私の将来を不安がるようなことを言うたびに、こう返していました。
「この子は大器晩成型やから大丈夫や」
根拠は一切ありません。何ひとつ裏づけのない言葉です。
当時の暮らしは単調でした。遊びといえば、カレンダーや広告の裏の白い紙を見つけてきて絵を描くか、近くの吉野川の河原で石を拾うくらいのものです。退屈な時間でしたが、いまとなっては、あの退屈な時間が私の人間性長にとって宝のような時間だったと思っています。
母方の家は、何事も隠さず、あからさまで、ときに失礼なこともズケズケ言う家でした。ただそれは、最後まで互いに面倒を見るという前提があってのことだったのだろうと思います。
二つの家は、交わらなかった
父は、母方の親族のあからさまな物言いについて、繰り返し不満や恨み言を述べていました。そして両家の行き来は、やがて絶えました。
ここで申し上げておきたいのは、どちらの家が良かったという話ではない、ということです。母方の家にも、あからさまであるがゆえの無遠慮はありました。父方の家が背負っていたものは、その家なりに重いものだったはずです。
私が言いたいのは、一人の人間が、文化のまったく違う二つの家のあいだで育つということが、実際に起きるということです。そして子どもは、どちらかを選んだわけではありません。ただ両方を浴びて育ちます。

私は、運が良かっただけだ
ここで、先に置いておきたいことがあります。
この連載では、第5回で「自我の器」という考え方を扱います。人の心にある一番小さな器に、自分への信頼と、自分を好きだという感覚と、自分の人生は何とかなるという確信が溜まっていく。それが満ちて溢れたとき、その先が他者に向かう、という見方です。私自身が幼児教育について考えてきた中でたどり着いた整理で、第5回で詳しく書きます。
この見方に照らせば、私はかなり恵まれた側にいたことになります。祖父母から、無条件の愛情と根拠のない全肯定を浴び続けたからです。「大器晩成型やから大丈夫や」は、事実としては何の保証もありませんが、器を満たす言葉としては十分でした。
ですから、もし私が父と違う反応をした場面があったとしても、それは私が立派だったからではありません。先に満たされていただけです。順番が逆であれば、私がどうなっていたかはわかりません。
そして、この考え方を他人に当てはめることは、この連載ではしません。父にも、大塚勝久氏にもです。人の内面を外から診断することは、当事者がいちばんしてはいけないことだと思います。使うのは、自分についてだけにします。
一九九五年一月十七日
家業に戻った経緯も、書いておきます。
私は大学を卒業した年に公認会計士の二次試験に合格し、神戸三宮の監査法人に勤めていました。上場企業と上場準備会社の監査です。
1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起こりました。事務所の入っていたビルは隣のビルが倒れかかっているという状態で、三宮以西に住むスタッフは交通が断たれて出勤できません。法人は大阪に仮事務所を構え、神戸以東に住む半数のスタッフで業務を回すことになりました。
震災対応がひと段落したころ、私は一度、様子を見に実家へ帰りました。家業の業績が思わしくないことは、かねて聞いていたからです。そして、そのまま退職という流れになりました。
当時のヨシリツは、年商7,000万円ほど。LaQの開発と設備に2億円を超える借入があり、欠損も相当に積み上がっていました。倒産の一歩手前です。
いま振り返っても、私は「決断して」家業に入ったわけではありません。仕事が行き詰まったわけでも、監査法人が嫌になったわけでもありません。様子を見に帰り、見てしまい、そのまま戻ることになった。決断というより、流れです。記録の上では1995年10月の入社ですが、ここで人生を決めた、という日は私にはありません。親孝行のつもりだったというのは本当です。ただ、それも後から言葉にしたものかもしれません。
彼女もまた、外から戻った人だった
大塚久美子氏の経歴を並べると、形がよく似ています。
1968年の生まれ。一橋大学の経済学部を出て、富士銀行に入りました。大塚家具に入社したのが1994年、取締役になったのが1996年です。2000年代の半ばにいったん会社を離れ、自分の会社を立ち上げています。そして2009年、社長として戻りました。
外の世界の基準を知っている人が、家に戻る。これが二つの承継に共通する形です。
そして、ここに最初の断層が生まれます。外から戻った人は、外の基準を持ち帰ります。決算書の読み方、意思決定の手順、人の評価の仕方。本人にとっては当たり前の道具です。しかし家の側から見れば、それは外から持ち込まれたものです。
私は監査法人から戻りました。久美子氏は銀行から戻りました。どちらも、会社を「制度として」見る訓練を受けた場所です。
承継は、入社の日に始まらない
まとめます。
承継の対立は、後継者が会社に入った日から始まるのではありません。その何十年も前から、二つのものが別々に準備されています。
一つは、家が背負ってきたもの。没落の記憶、失ったものへの感覚、家長とはどういうものかという前提。これは誰かが決めたわけではなく、ただ家の中に流れています。
もう一つは、後継者が外で身につけてきたもの。制度の言葉、数字の言葉、手続の言葉です。
この二つが出会う日が、入社の日です。つまり入社の日は、対立の起点ではなく、すでに準備されていたものが接触した日にすぎません。
だとすれば、「入社後にうまくやる」という発想では足りないことになります。承継の設計は、もっと手前から考えなければならない。これが第2回の結論です。
次回予告
第3回は、家制度の話です。
家制度を定めていた民法の規定が廃止されたのは1947年の改正、施行は1948年1月1日でした。そのとき私の父は三歳、大塚勝久氏は四歳前後です。二人とも、法律上の家制度を自分の記憶としては知らない世代です。
それなのに、二人とも家長としてふるまいました。
なぜそうなるのか。制度を変えても家が変わらないのはなぜか。次回はそこを書きます。
(次回に続く)
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本連載の筆者側の経緯・経営数値は、筆者および創業者一族の講演原稿(2002年・2006年・2010年・2021年・2022年・2025年)に基づく概算値であり、監査済み財務諸表の数値ではありません。株式会社大塚家具に関する記述は、公表された報道・開示資料および大塚久美子『後継者不足時代の事業承継』(集英社新書、2025年)によります。評価にわたる部分は筆者個人の見解です。
筆者:吉條嘉家(公認会計士・税理士)/Kakitsu株式会社 https://kakitsu.co.jp/
